「そんなの誰にでもあるよ」と言う人(と言われる人)へ
こんにちは。こまです。この前彼氏に困りごとを話していてまた「まあそれぐらいのことは誰にでもあるんじゃない?」と言われて悲しい思いをしたのでそれについて書いてみます。
あるあるですよね?
発達障害で悩んでいる方、カミングアウトしたときや自分がいやになって愚痴をこぼしたとき、こう言われたことありませんか?ありますよね??????
逆に何か相談をされたときに言ったという方、いらっしゃいますよね?(本人が覚えていなかったらそれは一番タチが悪いやつだな)
私は発達障害(ADHDと若干のASD)の診断をもらった後、打ち明けた人に結構な確率で言われました。いや確かに、以下に書く症状が当てはまる人はたくさんいると思います。
- 言われたことをすぐに忘れてしまう
- いやなことを先延ばしにしてしまう
- マルチタスクができない
- 人に何かを伝えるのが苦手
- 計画性がない
- 片付けができない
- 乗りたい電車に乗ることができない
でも、普通に生きていける人たちは、やろうと思えばできるとか、一回こっぴどく叱られたら繰り返さないとかだと思うんですね。それが、もともとの能力的に限界があってできないことがありすぎていつまでも社会や組織に馴染めなかったり、自己嫌悪の塊になったりしてしまうのが発達障害ってわけで。
ちなみに私は起きているのに電車で乗り過ごしたことも逆に一つ前の駅で降りてしまったこともありますし、今でも時計を読み間違えますし、ナンプレでオールしかけたこともあるし、大学の近くに住んでいるにも関わらず出席が足りなくて単位を落としたこともあります。これらも全部誰にでもあることでしょうか?
一部を見て「誰にでもあるから気にすることじゃないよ」っていうのは本当にわかっていない人の発言だなあと思ってしまいます。
本題
一度発達障害のことは置いておき、あらためて考えてみましょう。
- 骨折した
- 留年した
- 就職が決まらない
- 会社をクビになった
- 借金ができた
- 親が亡くなった
- 料理中にやけどをした
- 詐欺の被害にあった
- 財布をなくした
このようなことはよくある災難ですよね?これらのことで嘆いている人がいた時、あなたはその人に、「そんなの誰にでもあることだよ」と言いますか?
もしくは、その言葉で相手の問題が解決すると思いますか?
私は違うと思います。そんなことを言っても悲しみや怒りや悩み、何も解決しないからです。逆に自分が言われたとしたら「だからなに?」ってなりませんか?だからきっと、気持ちを吐き出せるように寄り添うとか、手当てをするとか警察に相談するとか、次に繋がる行動をしますよね?
それがなぜ発達障害のことになるとできなくなるのでしょうか?
例えば仕事の現場で自分の特性について相談する場合は「こういうことはできますがこういうことがひどく苦手なので少し配慮していただけませんか。そうしたらもっと良い仕事ができます。」というのが伝えたいことだと思います。
また、家族や友人や恋人に相談するときも、「私はこういう特性があるから生きづらさがあるんだ。つらくなることが多いんだ。」と、自分の気持ちを少しでもわかってもらいたい、そしてできることならリマインドや催促をしてもらいたい。というような気持ちではないかと思います。(特性が人それぞれならば相談も人それぞれですから、これに当てはまらない方ももちろんいらっしゃると思います。)
言われた側が取るべき行動は、上で挙げた例のときと大して変わらないのではないでしょうか。
ある日骨折して車椅子で生活になった人に、階段しかないビルの5階で仕事をしろとは言いませんよね?1階で仕事ができるようにするとか、休みにするとか、在宅勤務にするとか、その人と会社の事情を踏まえて何かしらの対策をしますよね?
だったら同じように、苦手な仕事の代わりに得意な仕事を任せるとか、進捗の確認を上司や同僚が定期的に行うとか、感覚過敏で悩んでいるなら在宅勤務できるようにするとか、できることをやるべきです。家族・友人・恋人の場合は、ただ話をきいてくれるだけで十分嬉しいですが、本人の自己嫌悪が行き過ぎないように、いいところを活かし苦手なことをカバーする方法を一緒に考えられたら最高だと思います。(ただ他人に対してそういう義務はないので支えになりたいと考える人だけにでいいです。)
それがなぜか「そんなの誰にでもあるよ。気にすんな。」になってしまう。これは全く相手に寄り添っていない、悩むことすらを拒否する姿勢ではないでしょうか。
なぜそのような言葉が出てくるのかというと、脳の異常で困ったことになっているという、「障害」という部分を見ないようにしているからではないでしょうか。ただの怠け、ただの考えすぎ・気にしすぎ。無意識のうちにそうやって考えようとしていませんか。そうすればあなたは悩まずに済むから。違いますか?
しかしそれでは当事者の悩みはいつまでたってもなくなりません。そんなの本人が勝手にやることだろと思われるかもしれません。確かに本人もできるだけの努力はすべきです。アラームをめっちゃかけるとか、手帳をうまく使えるようになるとか、全て紙に書き出して確認しながら仕事をするとか、苦手なことも特訓して乗り越えるとか、対策はあります。でも全て本人がひとりで行えるわけではありません。(例えば入りたての会社でもやっと指示された仕事について自分でマニュアルを作ってこなすなんて不可能でしかないですよね。)だから相談するのです。そうしないと社会で生きていくのがとてもとてもつらくなってしまうから。
結論
障害であってもなくても、困っていることがあるならガンガン相談してお互いに補い合ってやっていった方がみんな生きやすいのではないでしょうか。人にはそれぞれ得手不得手があり、それをうまく組み合わせてやっていくのが一番効率がいいはずです。適材適所というものですね。
だからまずはひとりひとりが自分のことをよく知って、お互いに話し合って協力する姿勢がもっと当たり前になればいいのになと思います。(机上の空論かもしれませんが)
ただこれは当事者側も自分自身としっかり向き合って、どこまでなら努力で補えるのか、どこからができない、もしくはつらいのか、どのような待遇を必要としているのかをはっきりさせる必要はあると思います。
また、すでに個人の特性に合わせた対応をしている方もいらっしゃると思います。そのような人には感謝でいっぱいになります。ありがとうございます。
あとできる限りの工夫をしているのに一向に改善しない!という場合もあると思います。そういう人たちにもっと工夫をしろとは言いません。日本語が通じないとか会社に来ないとか、もうどうしようもないという場合もあると思います。そういう場合は専門の機関に相談するのがいいのではないでしょうか。
おわりに 言われる側の人へ
最初と最後にしかメッセージがなくてごめんなさい。共感していただけたら幸いです。身近な言う側の人にこの記事を共有して良い関係作りの役に立ててもらえたらもっと幸いです。と言いたいところですが、何を言ってもわからない、自分の世界にこもっている人にはこの文章も何も効果がないということがありえます。正直、そのような人とはできるだけ関わらないことをおすすめします。他人を変えることはできませんからね。
生きづらい世の中ですが、なんとか生きていきましょう……