「そんなの誰にでもあるよ」と言う人(と言われる人)へ

こんにちは。こまです。この前彼氏に困りごとを話していてまた「まあそれぐらいのことは誰にでもあるんじゃない?」と言われて悲しい思いをしたのでそれについて書いてみます。

あるあるですよね?

発達障害で悩んでいる方、カミングアウトしたときや自分がいやになって愚痴をこぼしたとき、こう言われたことありませんか?ありますよね??????

逆に何か相談をされたときに言ったという方、いらっしゃいますよね?(本人が覚えていなかったらそれは一番タチが悪いやつだな)

私は発達障害(ADHDと若干のASD)の診断をもらった後、打ち明けた人に結構な確率で言われました。いや確かに、以下に書く症状が当てはまる人はたくさんいると思います。

  • 言われたことをすぐに忘れてしまう
  • いやなことを先延ばしにしてしまう
  • マルチタスクができない
  • 人に何かを伝えるのが苦手
  • 計画性がない
  • 片付けができない
  • 乗りたい電車に乗ることができない

でも、普通に生きていける人たちは、やろうと思えばできるとか、一回こっぴどく叱られたら繰り返さないとかだと思うんですね。それが、もともとの能力的に限界があってできないことがありすぎていつまでも社会や組織に馴染めなかったり、自己嫌悪の塊になったりしてしまうのが発達障害ってわけで。

ちなみに私は起きているのに電車で乗り過ごしたことも逆に一つ前の駅で降りてしまったこともありますし、今でも時計を読み間違えますし、ナンプレでオールしかけたこともあるし、大学の近くに住んでいるにも関わらず出席が足りなくて単位を落としたこともあります。これらも全部誰にでもあることでしょうか?

一部を見て「誰にでもあるから気にすることじゃないよ」っていうのは本当にわかっていない人の発言だなあと思ってしまいます。

本題

一度発達障害のことは置いておき、あらためて考えてみましょう。

  • 骨折した
  • 留年した
  • 就職が決まらない
  • 会社をクビになった
  • 借金ができた
  • 親が亡くなった
  • 料理中にやけどをした
  • 詐欺の被害にあった
  • 財布をなくした

このようなことはよくある災難ですよね?これらのことで嘆いている人がいた時、あなたはその人に、「そんなの誰にでもあることだよ」と言いますか?

もしくは、その言葉で相手の問題が解決すると思いますか?

私は違うと思います。そんなことを言っても悲しみや怒りや悩み、何も解決しないからです。逆に自分が言われたとしたら「だからなに?」ってなりませんか?だからきっと、気持ちを吐き出せるように寄り添うとか、手当てをするとか警察に相談するとか、次に繋がる行動をしますよね?

それがなぜ発達障害のことになるとできなくなるのでしょうか?

例えば仕事の現場で自分の特性について相談する場合は「こういうことはできますがこういうことがひどく苦手なので少し配慮していただけませんか。そうしたらもっと良い仕事ができます。」というのが伝えたいことだと思います。

また、家族や友人や恋人に相談するときも、「私はこういう特性があるから生きづらさがあるんだ。つらくなることが多いんだ。」と、自分の気持ちを少しでもわかってもらいたい、そしてできることならリマインドや催促をしてもらいたい。というような気持ちではないかと思います。(特性が人それぞれならば相談も人それぞれですから、これに当てはまらない方ももちろんいらっしゃると思います。)

言われた側が取るべき行動は、上で挙げた例のときと大して変わらないのではないでしょうか。

ある日骨折して車椅子で生活になった人に、階段しかないビルの5階で仕事をしろとは言いませんよね?1階で仕事ができるようにするとか、休みにするとか、在宅勤務にするとか、その人と会社の事情を踏まえて何かしらの対策をしますよね?

 だったら同じように、苦手な仕事の代わりに得意な仕事を任せるとか、進捗の確認を上司や同僚が定期的に行うとか、感覚過敏で悩んでいるなら在宅勤務できるようにするとか、できることをやるべきです。家族・友人・恋人の場合は、ただ話をきいてくれるだけで十分嬉しいですが、本人の自己嫌悪が行き過ぎないように、いいところを活かし苦手なことをカバーする方法を一緒に考えられたら最高だと思います。(ただ他人に対してそういう義務はないので支えになりたいと考える人だけにでいいです。)

それがなぜか「そんなの誰にでもあるよ。気にすんな。」になってしまう。これは全く相手に寄り添っていない、悩むことすらを拒否する姿勢ではないでしょうか。

なぜそのような言葉が出てくるのかというと、脳の異常で困ったことになっているという、「障害」という部分を見ないようにしているからではないでしょうか。ただの怠け、ただの考えすぎ・気にしすぎ。無意識のうちにそうやって考えようとしていませんか。そうすればあなたは悩まずに済むから。違いますか?

しかしそれでは当事者の悩みはいつまでたってもなくなりません。そんなの本人が勝手にやることだろと思われるかもしれません。確かに本人もできるだけの努力はすべきです。アラームをめっちゃかけるとか、手帳をうまく使えるようになるとか、全て紙に書き出して確認しながら仕事をするとか、苦手なことも特訓して乗り越えるとか、対策はあります。でも全て本人がひとりで行えるわけではありません。(例えば入りたての会社でもやっと指示された仕事について自分でマニュアルを作ってこなすなんて不可能でしかないですよね。)だから相談するのです。そうしないと社会で生きていくのがとてもとてもつらくなってしまうから。

結論

障害であってもなくても、困っていることがあるならガンガン相談してお互いに補い合ってやっていった方がみんな生きやすいのではないでしょうか。人にはそれぞれ得手不得手があり、それをうまく組み合わせてやっていくのが一番効率がいいはずです。適材適所というものですね。

だからまずはひとりひとりが自分のことをよく知って、お互いに話し合って協力する姿勢がもっと当たり前になればいいのになと思います。(机上の空論かもしれませんが)

ただこれは当事者側も自分自身としっかり向き合って、どこまでなら努力で補えるのか、どこからができない、もしくはつらいのか、どのような待遇を必要としているのかをはっきりさせる必要はあると思います。

また、すでに個人の特性に合わせた対応をしている方もいらっしゃると思います。そのような人には感謝でいっぱいになります。ありがとうございます。

あとできる限りの工夫をしているのに一向に改善しない!という場合もあると思います。そういう人たちにもっと工夫をしろとは言いません。日本語が通じないとか会社に来ないとか、もうどうしようもないという場合もあると思います。そういう場合は専門の機関に相談するのがいいのではないでしょうか。

おわりに 言われる側の人へ

最初と最後にしかメッセージがなくてごめんなさい。共感していただけたら幸いです。身近な言う側の人にこの記事を共有して良い関係作りの役に立ててもらえたらもっと幸いです。と言いたいところですが、何を言ってもわからない、自分の世界にこもっている人にはこの文章も何も効果がないということがありえます。正直、そのような人とはできるだけ関わらないことをおすすめします。他人を変えることはできませんからね。

生きづらい世の中ですが、なんとか生きていきましょう……

知らない人に話しかけられる話

こんにちは。こまです。

私はなぜか知らない人によく話しかけられます。いや、他の人がどのくらい話しかけられるのかわからないから、実はそれほどでもないのかもしれません。具体例をあげると、

  • 昨日何食べましたか?と聞かれる
  • 好みのタイプだと呼び止められる
  • 中国人観光客に道案内のついでに連絡先をきかれる
  • おばあちゃんに駅の場所を尋ねられる
  • 本屋でおすすめの本をきかれる(店員と間違えられたわけではない)

といったところです。これ全部去年の下半期で起きたことです。バリエーションが豊かじゃないですか?とくに新宿で絡まれることが多かったですね。

私にとって、知らない人に話しかけられるのは結構なストレスになります。とくに相手が男性である場合と、話す時間が長くなる場合。全身に力が入っちゃう感じです。嫌なので原因と対処方を考えてみました。

原因

原因はやっぱり見た目が大きいんだろうなと思います。

まず若めの隠キャ女子なので危害を加えそうな雰囲気はありません。体型は標準的です。目が大きいとは言われるのでそこを気に入ってくれる人もいるのかもしれませんが、もっと大きく影響しているのは雰囲気だと思います。

よく考えてみたら、知らない人に話しかけられるときってだいたいすっぴんなんですよね(新宿でもどこでもすっぴんで行きます)。だから特に顔が綺麗とかかわいいというわけではなく、やや童顔で仲良くなれそうな感じがするのかもしれないと思います。

あと、私がかわいい服を買った後や髪を切った後、本屋をまわっているとき、というシチュエーションを考慮すると私の表情が明るかったのかもしれません。

なんかけっきょく、顔立ちではなく雰囲気で、カモっぽいから話しかけられたんだろうなあという結論に至りました。はい。悲しいですね。

(何か変なオーラでもふりまいていたのか?自分ではわかりません)

私の対処法

私は極力ひとりでは新宿を歩かないことに決めました。誰かといるときより断然ひとりでいる時の方が話しかけられるからです。とくに変な人に。

あとはそういう人の相手をする義務はないと自分に言い聞かせるようにしています。嫌でも切り上げられないことが多いのですが、「時間が……」とか「彼氏が……」とか適当なことを言って逃げていいんですよね。当たり前なんだけど咄嗟にはそういう対応ができないので日頃からイメトレしています(自意識過剰)

また、カモそうな雰囲気がでているならそれをひっこめればいいんだと思い、最近は虚無の顔で街を歩くことが多くなりました。(・_・) そうしてからほとんど話しかけられてないですね。

まとめ

カモられる人生はつらくなりそうなので抜け出したいです。(文章書くの疲れたから適当)

 

 

勉強て楽しい(ひとりごと)

コロナウイルスの影響、ものすごいことになってしまいましたね。正直、昨年末ぐらいまでは全然意識してなかったのですが。未知のものの恐ろしさが身に沁みています。

私の通っている大学はまだWeb授業の導入もなく、ただ授業の開始が延期されている状態なので、今はひたすら暇です。暇というか、予定がない。もう全て自分の思い通りにできる。すんごい。

 

今、自分のやりたいペースで勉強するのがとてもとても楽しい。プログラミングをかじって、本を読んで、気が向いたときにルベーグ積分の勉強をする。一つのことをずーっとやり続けるのも素敵だし、何か大きな成果を出すには必要なことなのかもしれないけど、私にはいくつかを同時にやっていくのが向いているような気がしている。飽きっぽさが半端でないから。

プログラミングやって、反応が返ってくるの楽しい!参考書もすいすい進む!と楽しくやったら難しいところにぶつかったり目が疲れたりして嫌になってくる。

そしたら数学をやって、うお、この感覚久しぶりに味わうとやっぱりいいな。これは人生の役に立つとは断言できないけどこれこそが私の好きなことかもしれない!と思う。(いや楽しくやってるそのときはそう思うよね?)が、なかなか進まないし著者が「証明は簡単だから読者に任せる」とかいって煽ってくるし、頭が疲れるのでいやだ!となる。

そうなったら本を読む。ああこういう考え方の人もいるのか、ああこういう人になりたいな、ああいうタイプはいやだな、と思いを巡らす。読書は受け身でも良いからとても楽。のんびり読む。でもやっぱり飽きてくる。というか、読書って姿勢が難しい。悪い姿勢で読むと気持ちが悪くなってくるし、寝っ転がりながら読むと腕が疲れるからいい姿勢で読みたいんだけどなかなかキープができない。困っている(体を鍛えればいい話)

とこんなかんじで、とにかく自分のやりたいことをやらせてもらってます。働かないでも許されるのは今だけだからなきっと。仕事しないで勉強と自分の生活のことだけやって生きるってすごく贅沢だよな。勉強だって所詮は自分がやりたくてやることだし。やりたくなければ全くやる必要ない。趣味とも言えるのかしら。嫌々やっても全然身につかないし、どうしても勉強したくないとか、自分の全てを捧げたい何かがあるなら別に勉強しなくてもいいんじゃないかと思う。

でも、勉強ってすごく楽しい。物事の裏側がわかるってことは、ドラマの伏線を回収できるのと同じじゃない?好きな人が考えていることを理解できるのと同じじゃない?すごく楽しくない?面積・体積の公式がどうやって導かれたのかとか、私たちが使っている単位はどうやって生まれたのかとか、(今私が適当に考えた例だから私も説明できないけど)当たり前のようで当たり前じゃないことを、きちんと学んで確かな感覚にするのって、すごく丁寧で素敵な工程だと思っている。

うーん。でもよく考えたら私は「知らなかったことを知る」ことが喜びかもしれない。大学数学で印象に残っているのは幾何学で距離について学んだとき。私が今まで距離だと思っていたものはユークリッド距離という、”あるひとつの”距離でしかなくて、距離の測り方は他にもたくさんあるということ。そして”距離”の定義(条件)があるということ。まあ確かにね、長さや質量にも国によって様々な単位があるぐらいだし、空間の距離なんてもっといろいろあって当然のようなんだけれど、私は考えたことがなかった。特に離散位相つくるときの距離ね(名前なんていうのかしら)。自分と自分の距離は0。自分と自分でないものの距離は1。ってやつ。いやそんなことある?って思ったけど疑えば疑うほど定義の巧みさがわかるっていう。

 

私は好奇心が旺盛なタイプだから、よく考えたらやりたいことはたくさんある。

  1. Python
  2. HTMLとCSS
  3. JavaScript
  4. WordPress
  5. 英語
  6. 韓国語
  7. フランス語
  8. ルベーグ積分
  9. 複素関数
  10. グリーンの定理
  11. 微分方程式(ゼミ)
  12. ペン字練習
  13. 『「違うこと」をしないこと』を読む
  14. 『死にがいを求めて生きているの』を読む
  15. ニット帽編む
  16. ブログをたくさん更新する
  17. ラグビーの試合をみる(Jsportsオンデマンド!)
  18. 映画をたくさん見る
  19. 料理を作って食べる
  20. 部屋の片付け
  21. 大掃除
  22. TeXの練習

いや、え?自分でもどうした?って思う。まあもちろんこんなに色々はできないしなんならできてるの料理ぐらいしかない。全部それなりに時間がかかるものだしな。Progateの無料部分は着々と進めているところなんだけど、課金するかどうかで悩んでいるところ。しっかりやればそりゃあ価値はあるだろうけど、しっかりやるってことが果たしてできるだろうか。

まあ、生きてるだけでえらいからなんでもいいや。引き続き気が向いたものからやっていこう。とりあえず今日はこうしてブログ更新したから大成功じゃ。

最近カミングアウトについて気づいたこと【発達障害】

私は今大学生で、一年生のころからボランティアのような仕事のようなことをしていた。(ツイッターで仕事やめようかなとかつぶやいていた時期もあった。懐かしい。)

結局うつ状態がひどくてやめたんですけれども。

その職場で実は、辞める4ヶ月ぐらい前かな、ADHDだってカミングアウトした。仕事関係の人全員に対してじゃなくて、よく一緒に仕事をする人にだけ。でも結局特に配慮してもらえることはなかった。多分日頃から意識してくれたのは組織のトップぐらい。(めちゃくちゃいい人。仕事できるし自分の理念があるし知識も豊富で本当に尊敬している人。)

直属の先輩に(私がやばい仕事を抱えてパンパンになっていて)叱られたとき、

「こまちゃんの、なんだっけあれ、前言ってたやつ。あんなこと気にしてないよ。それでできないとか思ってないし仕事させないつもりもないよ。もっといろいろやろうとしてよ。」

というようなことを言われた。なんか、なんとも言えない。できないと思ってないのは期待してくれているのかもしれないけど、こちらとしてはできないから無理してやろうとしてミスする前に自分の能力を白状しましたっていう気持ち。そのいろいろに含まれる仕事は明らかに私に向いてないし、勝手に期待するのではなく相談してくれればよかったのにと思う。

そして一番悲しかったのが「なんだっけあれ」
発達障害です。その中でも注意欠陥多動性障害というものです。私は多動性は脳内に限り、注意欠陥の傾向が強く出ています。ちなみに、いやなことから逃げる、計画的な行動ができない、時間の感覚がないということが私の一番の弱点です。

カミングアウトしたとき、確かにそこまでちゃんとは話さなかったんだよな。期限とか頼まれた仕事とかを忘れやすいのでできればこまめに声をかけてください、ってぐらい。診断されたショックでちゃんと受け入れられてなかったのかもしれない。だから自分から助けてくださいって言うことができなかったのかもしれない。診断なんてあってもなくても私の性質は変わらないのにね。

だからちゃんと説明しなかった私が悪いんだけど、それにしても「なんだっけあれ」は傷ついた。私の特性なんて興味ないんだ。勇気を出して言ってみたのに届いてない。偏見すらなさそうだから逆に感謝すべきなのか?と思った。

で、最近気づいた。私はきっと、仕事仲間として配慮が欲しかったわけじゃなくて、人生で深く関わった人として、私の特性やそこから生じる生きづらさを理解してほしかったのだと。同期に愚痴を言って自分がつらい状況にあるとわかってもらいたいっていうのと同じ。どこかが痛いときに、言ってもどうにもならないのにわかってほしくて申告してしまうのと同じ。私は孤独だったんだ。少しでもわかってほしかったんだ。頼まれたことを3分後にはすっかり忘れてしまうのも、気づいたら考えがまとまらないまま時間が経っていることも、連絡するのが嫌で先延ばしにしてしまった結果ギリギリになって余計にストレスと自己嫌悪でいっぱいになるのも。

(ああ、涙が出てきた。)

わかってほしかったから、ちょっと寄り添ってほしかったから、ただ傾向があるっていうだけじゃなくてADHDっていう名前だけ出したんだ。そうしたら各自で調べて情報を得ることもできるから。きっと誰もそんなことしなかったけど。考えもしなかっただろうけど。ああ、あのトップはしてくれていたかもしれない。

でもやっぱり、自分が少ししか動かないで周りに期待するのはいい方法ではないと思う。大抵の場合は裏切られるし、向こうからしてもただの負担だ。いわゆる「察してちゃん」というものだ。先輩に言われた「もっといろいろやろうとしてよ。」となんら変わらない。それに対して私も「いや他の仕事をしたくてもできないぐらい手一杯だったんだが。私の仕事量把握してから言ってくれ。」と思った。相手も「いやこっちは知識ないし言われないとわかんないからお前が知ってること教えろよ。」としか思わないだろう。本当にその通りだ。

(鼻をかんだら血が出てきた。)

うん、結論。カミングアウトするなら、特に自分の希望があるなら、なんのために、どうやって、何を話して、分かってもらうのか、よーく考えて計画を練ってからにしてほしい。そしていざ話すときはそれらをまとめたメモも忘れないように。人によっては文章や絵で伝えるのも良いと思う。できれば身近で事情を知っている人を相手にリハーサルするぐらいがいいんじゃないか。

まあ、就職してからカミングアウトしたらクビになったということもあるらしいから何がいいのかわからん。まったく物騒な世の中だ。カミングアウトしたって以前より能力が下がるわけでもないし感染が広がるようなものでもないのにな。なんなんだろうな。

また、カミングアウトされる側の方は、少しでも関心を持っていてほしい。一緒に働いている人に苦手なことがあるならば、できるだけサポートしてほしい。

この方の”一連の”ツイート、発達障害当事者としては刺さる部分もあるが、雇ったり一緒に働いたりする人たちにはぜひぜひぜひぜひ読んでいただきたい。(この続きこそが大事。ただ攻撃的なだけではないから絶対に続きを全て読んでほしい。)このように少し(ではないかもしれないが)工夫することで効率が上がることもある。

それは、本人とよく話し合って特性と対策をしっかり把握しないとできない。きっと(私の個人的な見解だけれども)当事者なら困りごとには困らないから、話をきかせてくれと言ったらたくさん話してくれると思う。もちろん話すことが苦手な人もいる。自分のことが一番わからないという場合もある。そういう時はできれば、聞き上手な人が一緒に考えてみてほしい。一緒に考えようともしないのであれば、それは逃げだと思う。改善したいのか?このまま生きていくのか?と問いかけてみたい。もし相手が自分を見つめることを怖がっているようならば(自分の限界を自分で探って明確にする作業は自信がえぐられるからけっこうつらい)、ちゃんと対策をしていけば克服できるから大丈夫というふうに説得してみてほしい。

 

うん、結局自分の期待することをつづった記事になってしまった。まあひとりの当事者の意見として胸にとめておいてもらいたい。

みなさんが心穏やかに過ごせることを祈っています。

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葛根湯の話

風邪を引いた。おとといは軽めのくしゃみ、昨日から鼻声と鼻水、くしゃみ、今日は喉の痛みときた。

完全に風邪だ、やられた。この時期だとコロナかって言われる。正直うざい。知らんし。熱は出てないけど全然症状出ない人もいるっていうし、わざわざ病院に行っても感染したいのかってかんじだし検査させてもらえなそうだし。(別に検査したいわけでもない。まあ検査の理屈は興味ある。)

てことで葛根湯。かっこんとう。カッコントウ。かっこんかっこんかっこんとう。

何気に飲むの初めて。おばあちゃんが飲みなさいって言って顆粒タイプをくれたことがあるけど私は粉の薬がとてもとても嫌いだから飲まなかった。なんで粉タイプってあんなにまずいんだろうね。私の嫌いな(臭いと感じる)ストラテラもカプセルじゃなくて粉だったら飲んでなかったわ。

だから買ったのは錠剤のタイプ。コーティングしてくれてるから全然まずくない。舌の上にのっても全然味しない。これなら大丈夫。クラシエさん、ありがとう。(でも昨日薬局で探した時ほとんどが顆粒タイプだった!なんなの?みんな粉薬も飲めるの?強すぎじゃない?尊敬する。やっぱり吸収されやすいとか効果が出るのが早いとかあるのかな?

で、昨日の夜と今朝飲んだけど、まだ効果はわからん。くしゃみはぜんぜんしてないけどちょっと鼻がむずむずするし、喉が腫れてる感じがするし。まあ様子をみるか。

 

最近、なんかちょっと小説みたいなものを書きたいと思っている。が、実際に書いているのは友達のエントリーシートである。文章の構成を考えるのにはいい練習だけどな。タイピングが好きだし全く問題ないんだけどな。

てか物語作ろうにもアイデアがない。はは。

てかなんなんだこの記事、と思ったでしょう。大丈夫、これを読んだ人は100%そう考えているから。(だってこれ読むの一人か二人だからね。そりゃあ100%になるよね。)そろそろうざがられそうなので失礼します。

お元気で。

【映画】食べる女

こんにちは!お元気ですか?こちらはそこそこ元気です。夜ご飯にチキンラーメンをなぜかふたつ食べてしまいました。(デブとか言わないで)

さてさて、今日は朝早めに起きて、眠いけど眠れないというモードに入ったので映画をみました。今日の映画の情報は以下の通りです。

タイトル:食べる女
ジャンル:ドラマ
監督:生野慈朗
主演:小泉今日子沢尻エリカ
助演俳優:広瀬アリス山田優
アマゾンプライムより)

見た理由

いやーこれ上映された時から(2018年らしい。時が経つの早い。)すごく見たかったんです。映画館でやっている時はタイミングが合わなくて悔しかったのがprime入りしていたので大喜びで見ました。

食事に対しての執着なのか、ご飯系の映画がすごく好きなんです。一番好きな映画は「かもめ食堂」で、最近だと「 きのう何食べた?」もすごくわくわくしながら見ました。後者は映画じゃなくてドラマだけど。正直にいうと自分がどんな映画を見てきたのか思い出せませんでした。ああ、橋本愛が主演の「リトル・フォレスト」もすごく好きです(これも小泉今日子さん出てきますね)。

感想(ちょっとネタバレあり)

アマゾンプライムの詳細には上の数名の人たちしか名前が載っていませんが、出演者がすばらしく豪華でした。前田敦子、シャーロット・ケイト・フォックス、壇蜜鈴木京香と、私でも全員知ってる!やばい!というのが見始めてすぐの感想でした(笑)特に鈴木京香さん、王様のレストランがきっかけですごく好きなんですよね。

さて、この映画、もう本当におもしろかったです。なんだろう、それぞれの女の人が、それぞれのやり方で生きていくんですけど、そしてそれがなかなか濃いめなんですけど、どの人にも共感できる部分や憧れる部分があって、きゅんとさせられました。

鈴木京香小泉今日子のことを「いい女なんだあ」って言うところ、胸にじんときました。お互いに気を許して気軽につきあっているようで、本当は相手に対して深い思いを抱いているという。相手のことを心から尊敬していて幸せを願い、かといって遠慮しすぎるわけではない。なんだかちょっと兄弟みたい。
それに鈴木京香の説明で、小泉今日子がこれまでかなりつらいことを経験してきたということがわかり、少し泣きそうになりました。私がいまうつ病を克服しようとしている段階で、「つらい経験もいつか何かの役に立つ。立てよう。」と思うようにしているから響いたのかもしれません。どんなにつらいことがあっても、それをしっかり抱えて、悲しんでばかりではなく前を向いて、周りの人と頼り合いながら笑いながら生きていくのは私の理想だなと思ったのです。どんなにつらいことがあっても、ただ生きていくことしかできないし、それならやっぱり楽しく幸せに生きたいし、そこでさらに人の役に立てたら嬉しい。そういうことを自分以外のものから再確認できてよかったです。(まあそんな簡単にできることではありませんが。)

恋愛模様も素敵でした。うーん、でもなんとも言い難い。
出会いに比べると別れはネガティブなイメージがありますよね?でも誰かと別れるということは自分の新しい面と出会うことだと気づかされました。それが悪いことのように思えても、かならずその経験から成長してまたすてきな大人になっていくんだろうと。
私はすごく悲観的だから、今の彼氏とも(破局か死に別れか、種類は置いておき)いつかは別れるということを日頃から意識しています。それはとてもとてもとてもとても悲しいことなんだけれど、逃れられない。それなら今一緒に過ごすことを大切にしよう。一緒にいられなくなったとしても、それまで一緒に過ごした事実は消えないから。
なんて考えました。

さて、ご飯はたくさん登場しますが、特にトン子(小泉今日子)が焼いた手羽先がおいしそうでやられました。スーパーで手羽先を探したけどなかったので豚のバックリブ(?)を買って塩胡椒してオーブンで焼いて食べました。この部位は買うのも見るのも初めてでした。初めてのことってわくわくする。にやにやしちゃう。骨の部分が多くて(体積の半分は骨だろって感じ)食べ応えはそこまでなかったけど、小さい分食べやすいし脂のバランスがちょうどいいしおいしくいただきました。ああ幸せだ。

今度は肉じゃがを作りたい。作ろう。

なんかぜんっぜん感想になってないな。今も頭がはたらかない感じがするし。お腹一杯に食べ過ぎたか。

とにかく迷ったら見てください!見てよかったです!

 

最後に

手が込んでいてもいなくても、心が込もっていたらだいたいのものはおいしい。
そんなご飯には人を癒す力がある。

このことを一生胸にとめておきたい。(それで彼氏の胃袋を鷲掴みにする!!)

【映画】男と女

今日みた映画の感想を書いてみます。せっかく見たなら考えたことや感じたことを自分の文章で表現した方が心に残るかなと思って。続けるかもしれないし続けないかもしれません。

映画について

タイトル:男と女
ジャンル:ロマンス
監督:イ・ユンギ
主演:コン・ユ,チョン・ドヨン
助演俳優:イ・ミソ
アマゾンプライムより)

タイトルからも感じられますが、大人の恋の物語です。しかも禁断の恋……

結論からいうと私は気に入りました。日本の昼ドラのようにドロドロなのではなく、ひたすら切ない感じ。おすすめです。

見た理由

最近韓国語の勉強をしておりまして、モチベーション維持のために韓流のドラマか映画を探していました。ちなみに私はアマゾンプライムの学生プランの無料お試し期間中です。

前にトッケビというドラマを(これもアマゾンプライムで)見てコン・ユが好きになり、また拝みたいという下心でこれに決めました。期待通りかっこよかったです。はい。

そして韓国語は全然ききとれませんでした。まだまだですね。伸びしろしかないってやつ。

感想(ネタバレあります)(めっちゃネタバレします)(ネタバレネタバレバレバレ)

もう一度言わせてください。コン・ユがかっこよかったです。(色気たっぷりでした。)筋肉(とくに腕と腹筋。なんでそんなに引き締まってるのってツッコミかけたわ。)もヒゲも含めて。あと言動が激しく好みでした。無邪気にただひたすら一緒にいたがるところ、素敵でした。彼氏を思い出しました(突然の惚気)。あと海を眺めながら話すシーン、ああいうのが幸せっていうのは両思いだからだよなあ。ただ心地よい空間に一緒にいて、くっついて、ふたりについて語る。この二人の場合はとても切ないんだけどね。『帰るのやめようか。』うん、私的にはそうしてほしかった。

雨のシーン、空が明るいわりに土砂降りでバランスが悪くないか?と細かいところが気になりました。あれってどうなんでしょう?そういう表現(ちぐはぐな気持ちを情景で表すとか)なのか、ただ必要とする天気(暗い日)に恵まれなかった結果なのか。もしわかる人がいたら教えてほしい。それともどっちでもいいって流すところなのか?

最後、会えそうで会えない(会わない)で終わるの、泣きそうでした。(泣かなかったけど!)そうだよね、家族は大事だよね。コン・ユの奥さんが嫌な人なのかと思ったら少し心に闇を抱えているだけだったっていうのもずしんときました。つい感情移入してしまう。好きすぎるのも自分に自信が持てないのもつらいよね。うん。あと、何かあることを感じ取っていただろうにその対応をするのかと驚かされました。私だったらあんなふうにできるかなあ。どうかなあ。あの人も余裕であの対応なんじゃなくて精一杯だったんだろうけど。

相手のことが好きなのは紛れもない事実なんだけれども、他にも捨てられないものがある。どうしてもどちらかを選ぶしかない。誰でもきっとそういうことがある。それで後悔したり悲しくなったり、本当にどうしていいのかわからないような思いでいっぱいになることもある。でもそれが人生。それを抱えたまま生きていくしかない。そういうことを実感させられました。(幼稚な感想だけれども。)私もたった21年しか生きていないのに、つらい思い出や捨てられない負の感情がたくさんあります。でもそれがあってこその私でもある。きれいなばっかりじゃ生きられない。このまま生きよう。そしてさらにいろいろ重ねていこう。そう考えられました。(つい昨日あたりにもこういうことを考えたからかもしれないです。)

あと私のツボだったのが最後に登場するタクシーの運転手さん。ああやって何気なく人の心を救う人。ああいう人に私はなりたい。

また見たいな。その時はまた印象が変わるかもしれない。それもきっと素敵。

見てない人はぜひ見てください。こんなにネタバレしてから言うことじゃないかもしれないけど、私はおすすめします(*´-`)