無知はよくないけど恥ずべきなのは自分を疑わないこと

こんにちは。こまです。

私は昔のことで、どうでもいいことばかり覚えています。いや、大事なことも多少は覚えているはずですが大抵はくだらないことです。

遊んだときに友達が着ていた服とか、小学生のときにはまっていた遊びとか、リンカーンが口髭だかあご髭だかを伸ばし始めたのは女の子からその方がかっこいいと言われたからという(小学生の頃伝記で読んだ)エピソードとか。

フラッシュバックみたいな、ふと記憶がよみがえってきて苦い気持ちになることもよくあります。

まず、かなりしんどいのが「私なんて死んだほうがいいんだ」と言った友達に「じゃあ死ねば?」と言ったことです。小学生低学年のときだったかな。ほんとひどい。これは自分でつくったトラウマみたいなもんですね。言い訳をさせてもらうと、母親の受け売りでした。いますよね、「死にたいとか言う人ほど死なないんだから勝手に言わせとけ」みたいなことを平気で言ってしまう人。そのときは、私も母もそういう考え方でした。本当に後悔しているし、恥ずかしい。その子が死なないでくれたのがせめてもの救いです。

次に、「偏頭痛なんて思い込みで生まれるものでしょ」となんの根拠もなく思い込み、平気で友達にもそう主張したこと。それも小学生のころだったけど、「自分が経験したことないものは全部嘘」っていう本当に浅はかな考えでした。ちゃんと調べもしないでね。その後何かの本で「大気の状況で体調に変化が現れるのは当然のこと」というような文章を読んで初めて考えを改めました。それっぽい本じゃなくて目の前にいる人の話をきけよって感じですね。(その人の話が必ず正しいとは限らなくても)

うーん、今思いつくのはこの辺ですかね。

こどもは自己中心的で勝手な思い込みをしていて当たり前というような気もしますが、(俺が世界で一番強いぜとか本気で言う男の子なんてよくいるじゃないですか。)私の場合は人を傷つけてしまったという点で許されないものだと思っています。

「じゃあ死ねば?」って、私が本気で死にたいときに言われたら「うん。わかった。」って言って線路に飛び込んだかもしれません。少なくとも自傷はせずにいられなかったでしょうね。私がこんな言葉をぶつけた相手が自死を選んでしまっていたらと考えるとぞっとします。まあ、その子が死なないでくれたとしても傷を負わせたことには変わりないので許されることでもありませんね。

多分この文章を読んでくださった方の中には、「ありえない」「そんなひどいことが言えるなんて」「恥を知れ」なんていう風に思った人もいらっしゃるのではないでしょうか。

でも、最近のSNSでの誹謗中傷とか、全然話が通じてない口論とかもこんな感じじゃないですか?何も知らないけど知るべきとも思わず、ただ自分の頭にうかんだことをぶつける。そして相手の主張には聞く耳を持たない。というか理解しようとしない。どう揚げ足を取るかということだけを考えている。

うーん。もちろん、いつでも必ず正しい答えがあるわけではありません。相手が正しいとも自分が正しいとも言えない。それはいくら話し合ってもはっきりしないかもしれません。

でも、いつでも「自分の知らないことがあるのかもしれない」という姿勢を持つべきだと思うのです。人の話を聞くときも、人に意見を言うときも。

ああ、「俺はよくわからないけど」って前置きをしながらも結局わずかな知識と自分の思い込みでガチガチの意見をぶつけてくる人もいますけどね。いや、全然知識がないってわかってるなら話を聞くところから始めろよ。意見をするってことは自分のちゃちい持論にもそれなりの自信があるってことで、前置きなんて保険・建前でしかないでしょ。相手の話を聞くつもりないだろ。って突っ込みたくなります。まあ突っ込んでも自分を疑うなんて意識したことないみたいで同じようなことを何度も繰り返されますが。(すみません。最近そういう人とよく話していたもので。私情をはさみました。)

自分の軸をしっかり持っていて意見をズバズバ言える人はとてもかっこいいと思います。憧れます。

でもそれは、自分しか見えてない人とは違うと思うのです。自分の視点にとらわれず、いかに視点を変えて、自由な思考をするかということが大事だと思うのです。その際にはもちろん自分とは正反対の立場からも考えてみる必要があります。それは自分を疑うということです。とても難しいけど、(私もちゃんとできているとは言えません)そこから学べることは多いと思うのです。

自分の世界で凝縮された暴言ばかり吐く人が減りますように。

また、私もそういう人になりませんように。今あるそういう部分が減らせますように。